塾から自己承認感がはぐくまれる

塾から自己承認感がはぐくまれる
塾から自己承認感がはぐくまれる

敬愛する児童精神科医・滝川一廣・学習院大学教授からお話をいただいて、2010年春に書き下ろしました。

「塾の現場から子どもたちに何がはぐくまれるか?」との難題に、

「利他塾から自己承認感がはぐくまれる」と答えた論考です。

ここではtoBe塾の公的名称「toBe学習援助室」を使っています。

日本評論社『そだちの科学14---学びの現在』 所収

 

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塾から自己承認感がはぐくまれる

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◆利他塾から何がはぐくまれるか

 

ひとくちに塾といっても、国内外に展開するフランチャイズ教室に四百万人以上の小中学生が通う公文式も塾なら、五万人を超える高校生・大学受験生が在籍する河合塾も塾である。そして公文式と河合塾の間に、どこの町でも見かける進学塾が存在する。これらはみな営利を第一目的とする。

 

いっぽう、生徒総数が三十人に満たない家族経営の塾も日本全国津々浦々に数万軒は点在する。さらにその一%ほど、数百軒の塾は低学力、不登校、発達障碍の子どもたち青年たちも受け入れている。そうした塾の多くは、営利は塾存続の手段に過ぎぬと見栄を張り、塾生数の減少イコール年収の減少に毎月おびえながらも、子どもたち青年たち一人一人のすこやかな成長発達をうながすことを仕事の第一目的と考えている。

 

こうした塾あるいはフリースクールを本稿では仮に利他塾(りたじゅく)と呼ぶことにすると、利他塾から何がはぐくまれるのだろうか。

 

結論を先に述べると、武谷三段階論を援用すれば、現象論的には〈独習力〉と〈交流力〉であろう。実体論的には〈自助力〉だろう。そして本質論的には〈自己承認感〉なのではないかと思われる。

 

以下、私の目には利他塾と映る懇意の塾とフリースクールを念頭に置きつつ、利他塾(以下「塾」)の末端の一軒でありたいと願ってきた私の塾の事例を中心に考察してみたい。

まず現象論的レベルから、私の塾の日常風景をスケッチして、治療構造論(小此木啓吾)を参考に、授業構造、コスト、立地、教室内レイアウトなどを記述してみようと思う。

 

◆いつもの夜のtoBe学習援助室

 

夜、ピンポーンと鳴るドアフォンに向かって私が「トゥー(to)」と言う。「ビィー(Be)」と返事を返した生徒たちが玄関で靴を脱ぎ、廊下の流し台で入念に手を洗い(新型インフルエンザ対策)、用意してある日替わり茶を飲みながら、ひとしきりジャレあい談笑する。寡黙な不登校生も微笑みながら一緒に入室して好みの席につく。

 

「toBe学習援助室」は単身者向け賃貸ワンルームマンション一階の六畳間一室だけを教室とする極小塾である。正式名称は「学習援助スペースnot to have but to Be 」。「点数、学歴、地位、名誉、お金を所有すること(to have)へのこだわりを自覚しながら、自分の〈独自性〉に自信と誇りをもって、そのまんまの素の自分(to be)を信じて御一緒に生きませんか」といった気持ちから名づけた屋号である。

 

開設当初は、不登校の中学生と高校中退生らが大半で、勉強の苦手な登校生が少しだけいるような学習フリースクールにする予定だった。ところがスタートしたとたん、学校も勉強も大好きな元気いっぱいの小中学生と高校生が口コミで次々に入塾してきた。そこでみんな一緒に勉強するようにしてみたら、これが案外よかった。

 

三人がけの会議用テーブルが二列平行に並び、六名前後の生徒が三人ずつ向きあって座る。モル濃度に苦しむ高二女子が、右隣の小五男子に比例計算を教わる。そして左隣で漫画『日本の歴史』を読むうちに寝入った不登校中一男子の肩にそっと毛布を掛ける。その向かいでは国際弁護士をめざす中三女子が東大英語入試問題の直訳を楽しげに記述し、芸大志望の高三男子が「to eat は食べるタメニ、食べるタメノ、食べるコト、食べテ」とつぶやく。大学院をめざす四十代公務員は教授学のレポート作成が進まず腕組みして天を仰いでいる。

 

私はその間を行ったり来たりしながら、一人ひとりの鉛筆の先端の動きを凝視し、リアルタイムで巨大な七重花丸を付けていく。丸の中央に小さな(^o^)を描き添えながら、「センセーあのねー」で始まる生徒たちの様々なお話――ファッションや進路の問題、友達や親や学校の先生との間に起きたムカついたことや嬉しかったこと――に真剣に耳を傾け、相鎚を打ち、感想や意見を述べる。

 

家庭教師の個人指導を六人同時にやる要領である。小中高・英数国理社他の授業を一人でおこないながら、生徒から毎月末に手渡される月謝袋から現金を取り出して集金箱に納め、領収印を押し日付をサインして月謝袋を生徒に返す(この瞬間、塾は市場にリンクする)……これが普段のtoBe学習援助室の風景である。

 

生徒総数約二十名。平均すると登校生八割、不登校生や成人が二割で、全体の九割が十代である。これまで六歳から七十歳まで幅広い年齢の人たちが通ってきた。一コマ九十分の授業が一晩二コマあり、一時間半を要するインテーク面接時に契約した曜日のコマに、小学生は週に半コマ、中高生の多くは週に一コマか二コマ通塾する。

 

料金は月謝制で、出席コマ数に応じて月謝額は増えるが、中高生が定期試験の二週間前から全授業時間に出席できる補講は無料である。この期間に国語、理科、社会科を集中的に学び、普段は主に英語と数学にとりくむ。最大八割引の自活者割引、母子家庭割引、兄弟姉妹割引を実施しているが、塾には公的補助がないので、割引総額は年収の減収額に等しい。

 

開塾の五年後、精神科クリニックに長年勤務していた臨床心理士の妻が「toBeこころと教育の相談室」を開業し、同じ部屋を昼は心理相談室、夜は塾と使い分けて現在に至っている。

 

場所は都内の私鉄駅から徒歩三分にあり、神奈川県、埼玉県、千葉県からも片道一時間で通塾できる。部屋には六畳間のほかに半畳の玄関、一畳半の流し台付き廊下、バスルームとは独立した遮音構造のトイレがある。女子生徒にとってトイレの遮音性は重要だ。これら室内の総面積は六坪で、室外に小中学生の自転車が五台置けるスペースがある。地の利、遮音トイレ、駐輪スペースの三点が、家賃月十二万円の六畳間を選んだ理由である。室内照明は準自作のインバーター式蛍光灯八機で夜も昼のように明るい。授業BGMはグレゴリオ聖歌から長谷部徹まで計四百時間に編集したクラシックと映画音楽がシャッフルしながら静かに流れる。

 

自作本棚の柱は生徒名と傷でいっぱいだ。傷は入塾時の身長計測の跡で、小中学生は毎週のように互いに計りっこしては盛り上がっている。小五から高三まで八年間に五十cm伸びた男子が最高記録だ。入塾ルートは二〇〇九年度から自作ホームページと口コミの二つに絞り、不登校生は信頼できる精神科クリニックからの紹介ケースのみ受け入れている。自宅は塾から徒歩五分にある。

 

◆塾は子どもとナナメの関係にある

 

家庭のなかで、小学生はやる気はあっても分からない箇所から先へ進めない。中学生は広範囲にわたる定期試験の勉強の仕方がわからない。高校生はそもそも学校や予備校の授業が理解できない。そんな我が子に勉強を教えられる親は少ない。我が子のひどい成績を見て腹を立てる親は多い。勉強に関して、家庭は子どもと水平の関係にあるといえよう。

 

学校(一条校=学校教育法第一条に規定された幼小中高専大)は生徒に成績を付与し、在籍証明書と卒業証明書を発行する権限をもつ国家機関である。勉強に関して、学校は生徒と垂直の関係にある。

 

学校教師の学習指導の技量は、授業宿題試験問題の三つに顕現するが、この三つの質の高低を査定する力は、勉強の素人である子どもも親も有していない。だから学校教師の授業と宿題の質が低くても、生徒は授業が分からないのは自分の頭が悪いから、と思い込む。試験問題が劣悪でも、親は成績が悪いのは我が子の努力が足りないから、と信じて疑わない。

 

その点、塾は成績をつけることなく学習指導に専心できる立場にある。勉強に関して塾は子どもとナナメの関係(河合隼雄)にあるといえよう。そこで塾は家庭からも学校からもサポートや支援を求められるのだろう。

 

塾は子どもに勉強を教えるほかに、親に対しては緊密にメールや電話で、授業と宿題と試験問題の中身や構造、背景や歴史を説明して、親子バトルと我が子の将来への不安が減るようにサポートする。学校教師に対しては、塾主催の勉強会(ときには大学院ゼミ)等で、生徒の独習力が安全かつ堅実に伸びる宿題と試験問題と授業を創る技術・思想・物語を具体的に指導して、仕事のストレスを減らし、学校教師という職業への誇りと自信を回復できるように支援している。

 

◆独習力と交流力がはぐくまれる

 

〈認識の発達〉と〈関係の発達〉は支え合っている(滝川一廣)。こうした塾からはぐくまれる〈認識の発達〉をうながす力は〈独習力〉であろう。あらゆる教科の奥底に、生徒に将来の独習を可能にさせる、基本原理の根幹が隠れている(コメニウス)。それを教師が見つけてエッセンスを抽出し、そこを繰り返し教える。数学では方程式とは天秤の釣合い、関数とはブラックボックス、微分とは接線の傾き、積分とは面積…などと、授業の最初に原理的イメージを伝えて最後までそれを貫く。

 

英語では〈述語の発見〉が基本原理の根幹なので、助動詞、前置詞、接続詞の合計七十単語の使われ方に習熟させる。塾の授業中にそれだけ習得すれば、他の一切は生徒が独習できる。だから高校の三分の一以下の英語総授業時間数で、私の塾の生徒たちは東京大学、早稲田大学、慶応大学、上智大学、早稲田大学大学院などに合格する。あるいは高校在学中に生涯の職業を見定めて専門学校に進学する。そして入学後も勉学に励み、卒業後はさらに精進して社会の第一線で活躍している。

 

塾からはぐくまれる〈関係の発達〉をうながす力は〈交流力〉だろう。ひとつは異年齢の〈交流力〉だ。長男長女の小学生が一人っ子の中学生や末っ子の高校生と親しくなり、兄弟姉妹のように刺激しあい慕いあう関係ができることも希ではない。腹ぺこ小中学生のために堅焼き煎餅を常備しているが、これは五十代の私とのジャンケン二回勝負に勝たないとゲットできない。この毎晩のゲームも生徒一人ひとりの〈関係の発達〉にとってマイナスではないと信じたい。

 

もうひとつは不登校生、中退生、ニートらと登校生との〈交流力〉だ。にぎやかな登校生の弾けるエネルギーに感染するのか、寡黙な不登校生がある日を境に饒舌君に変身することがある。授業中も鼻歌を止められない躁病の中学生、私に毎週同じ質問と突っ込みを繰り返すてんかんの高校生、高次脳機能障害を毎年すこしずつ克服してゆく成人男性……そうした人たちの隣席で小中高の六年以上を過ごした卒業生たちは「この塾以外では絶対に出会えないような人たちと一緒に勉強できたのが、この塾を選んで一番良かったこと」と異口同音に語る。

 

◆自助力の根幹がはぐくまれる

 

日本社会という実体において、塾教育の目的は何か、塾のレーゾン・デートルは何処にあるのだろうか。

 

家庭教育の目的、子を持つ家庭のレーゾン・デートルは、我が子の自己実現(マズロー)のみを目標にするのではなく、学校卒業後、ほどよい(good enough)人生を歩むことができるのを目標にして親が子を育てることにある、とでも言えようか。

 

学校に関しては日本を代表する教育法学者が日本と世界の教育法制を体系的に深く研究して導き出した次の言葉を私は好む。「学校教育の目的は何か、学校のレーゾン・デートルは何処にあるのか…中略…それは児童・生徒を〈自律的で成熟した責任ある市民=パブリック・シチズン(public citizen)〉へと育成することにある」(結城忠)

 

こうした家庭と学校とのナナメの関係の軸上に塾があるとすれば、塾教育の目的、塾のレーゾン・デートルは、生徒一人ひとりの自助力の根幹をはぐくむことにある、とはいえないだろうか。

 

自助とは「他人の力に頼らずに、自分の力だけで物事をなしとげること」(明鏡国語辞典)あるいは「他人に依頼せず、自分の力で自分の向上・発展を遂げること」(広辞苑)とされる。

 

では子どもはどこで「物事をなしとげる」のか。生徒が「自分の向上・発展を遂げる」場はどこか。それは家庭においてというよりは社会においてであろう。あるいはプライベートな(エロス的な)関係性においてというよりはパブリックな(社会的な)関係性において、と言い換えてもよいだろう。「現代の我が国で子どもにとって〈社会〉的な相互関係の場といえば、〈学校〉をおいてはないというふうに(なり過ぎて?)いる」(滝川、一九九四年)。つまり子ども・生徒にとって自助とは、学校において物事をなしとげること、学校において自分の向上・発展を遂げることなのだ。

 

家庭と学校の両サイドから子ども・生徒に要請される、なしとげられるべき物事とは学業成績の向上・発展であり、専門学校進学または高認(高校卒業程度認定試験)合格あるいは大学合格であることは言うまでもない。ゆえに塾は生徒一人ひとりの学校の成績が向上・発展し、専門学校、高認、大学に合格するように導く努力と様々な工夫をするのである。

 

◆自己承認感がはぐくまれる

 

子ども・生徒一人ひとりの実存にとって、塾からはぐくまれるものの本質は自己承認感なのではないだろうか。私の考える自己承認感とは、〈独自性〉を有するこの自分はこの世界に存在し続けていてもよいのだ、と自己の実存を承認(ヘーゲル)する意志のことだ。自己承認感は自分の物語を生きる希望の源泉である。自己承認感を獲得していれば、小中学生は成績が伸びなくても勉学を放棄しない。高校生は自律的で成熟した責任ある市民へと育って、社会的弱者の味方になれる職業をめざす場合だってある。大学生は人生の困難が続いて鬱や心身症になりかけても浮上しようとする勇気も生まれるだろう。

 

自己承認感を獲得するには、プライベートな承認感とパブリックな承認感という二重の承認感(個人的にも社会的にも自分は認められている、という静かな確信)がはぐくまれる必要がある。

 

プライベートな承認感は、家族や友人とのエロス的な関係性(小浜逸郎)においてはぐくまれるだろう。

 

パブリックな承認感を得るには〈文書で確認できる〉ことが重要だ。大人はパブリックな承認感を勤め先の身分証明書で得るし、所得金額で数値も確認できる。では子ども・生徒は何をつうじてパブリックな承認感を得ることができるのだろうか。小学校、中学校、高校の学業成績か高認合格か専門学校・大学合格だ。二一世紀の日本で、自分が社会的にどれくらい認められているのかを子ども・生徒自身が文書で確認できる装置は、実質的には一条校の校内試験、高認、大学入試偏差値の三つなのである。

 

成績不振の苦しさの実存的本質は、パブリックな承認感を得られないことにあるだろう。落第や退学、受験失敗、不登校の実存的な辛さの本質は、孤独や将来への不安もさることながら、パブリックな承認が与えられる機会と場を失うことにあるのではないか。そこから「自分は社会から見捨てられた」、「自分は社会に必要とされていない」、「自分はこの世に存在する価値がない」……と絶望にいたるまでの距離はあまり遠くないだろう。

 

私は学生時代から三十年以上、生徒の学業成績と独習力が同時に伸びる学習援助法の研究開発に腐心してきたが、その根本動機は子どもたち一人ひとりの実存に自己承認感をはぐくみたい、同時にその輝く姿の確認をとおして私自身も自己承認感を得たい、という願望ではなかったかという気もする。

 

承認(しょうにん)と賞賛(しょうさん)は「に」と「さ」の一音違いで響きが似ている。「認められた!」喜びと「誉められた!」嬉しさはきっと相似形だ。だから私は賞賛する。それまで出来なかったことが出来るようになったら賞賛する。成績が伸びた子には素質とやる気と努力を賞賛する。勉強は苦手だが発想の良い子には「それが知力の最高峰」と賞賛する。笑いが取れる、場が和む、手先が器用、整理整頓、無遅刻無欠席、ファッションセンス……生徒一人ひとりに必ず潜むキラリと光る〈独自性〉を見つけて賞賛し続けることが己の仕事に求められる本質と心得て、今夜も私は生徒を賞賛する。

 

[文献]

コメニウス『大教授学』明治図書、一九六二年

武谷三男『弁証法の諸問題』勁草書房、一九六八年

小此木啓吾『精神分析セミナーⅠ精神療法の基礎』岩崎学術出版社、一九八一年

神田橋條治『精神療法面接のコツ』岩崎学術出版社、一九九〇年

滝川一廣『家庭のなかの子ども学校のなかの子ども』岩波書店、一九九四年

西研『ヘーゲル・大人のなりかた』NHKブックス、一九九五年

結城忠『生徒の法的地位』教育開発研究所、二〇〇七年

(ほんだ・てつや/学習援助)

 

本田哲也の教育論考「塾から自己承認感がはぐぐまれる」『そだちの科学14』日本評論社

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